昭和レトロを愛してやまない私めが、今もしみじみと思い出す「あの頃」の記憶。
今回は、昭和の給食時間に必ず現れた、純白にして最強のライバル……そう、「瓶牛乳」にまつわる悲喜こもごもを語らせていただきます。
笑いあり、涙あり、そして鼻から噴射した白い液体の思い出あり。2000文字のノスタルジーにお付き合いください。
瓶のフタは宇宙だった。昭和の教室を支配した「純白のあんちくしょう」
こんにちは、こんばんは、かっぱ隊長でございます。
昭和の学校給食と聞いて、皆様は何を思い浮かべるでしょうか。
香ばしい揚げパン、独特の食感のソフト麺、そして今や高級食材(?)となったクジラの竜田揚げ。どれも主役級のスターたちですが、忘れてはならない存在がいます。
そう、どんな献立の日であっても、教室の片隅で静かに、しかし圧倒的な威圧感を放って鎮座していた白い「あんちくしょう」――牛乳さんであります。
今の子供たちに「給食の牛乳は?」と聞けば、100人中100人が紙パックを想像するでしょう。ストローを刺すだけのスマートな飲料。しかし、我々昭和世代にとって、牛乳とは「格闘」の対象でした。あの重たいプラスチックケース(通称:牛乳函)が運ばれてくるところから、ドラマは始まっていたのです。
ここで少し、現代の「瓶牛乳事情」に触れてみましょう。
農林水産省の統計(2023年度)によれば、全国の学校給食で瓶牛乳が占める割合は、わずか約4.9%にまで減少しています。絶滅危惧種といっても過言ではありません。
ところが、この日本に唯一「瓶の聖地」と呼べる場所が存在します。それが長野県です。なんと信州の子供たちの約93.5%が、今でも瓶牛乳をグイッとやっているのだとか。リサイクル効率や低温維持の面で瓶が見直されているそうですが、令和の時代に瓶を洗って返す文化が根付いているとは、なんとも胸が熱くなる話ではありませんか。
さて、話を昭和の教室に戻しましょう。
瓶牛乳最大の難所、それは「紙のフタ」です。
専用の針(フタ開け器)があれば良いのですが、当時は爪で端を引っ掛けて開けるのが主流。しかし、あのフタはなかなかに頑固でした。焦って雑に開けようものなら、フタがそのまま牛乳の底へダイブ!
「ああっ!」
という悲鳴と共に、指は牛乳まみれ。さらに追い打ちをかけるように、フタが沈んだ衝撃で白い飛沫が机に飛び散る……。今思えば、あれは一種の「集中力を養う儀式」だったのかもしれません。
そして、このフタは単なるゴミではありませんでした。
当時の小学生にとって、フタは立派な「通貨」であり「ホビー」だったのです。
裏側に印刷された数字や記号でレア度を競い合い、ポケットは常に乾いた牛乳の匂いがするフタでパンパン。
「メンコ」として地面に叩きつけ、風圧で相手のフタを裏返す。あるいは、机の上に置いて「パッ!」と息を吹きかけ、ひっくり返れば勝ち。あの頃の私たちは、たかが紙の円盤一枚に、全霊の情熱を注いでいたのであります。
噴射する悲劇と魔法の粉。ミルメークが繋いだ「昭和の絆」
しかし、楽しい思い出ばかりではありません。
当時の給食現場には、今では考えられない「体育会系ルール」が蔓延していました。
それは「残してはいけない」という絶対ルール!
どんなにお腹がいっぱいでも、どんなにその日の煮物が苦手でも、最後は牛乳で無理やり胃袋へ流し込む。それが昭和の作法でした。
飲み切れなかった不運な生徒は、昼休みになっても一人、教室でポツンと牛乳瓶と対峙させられました。机の横で正座し、涙を流しながらぬるくなった牛乳を啜る姿……。
今の時代なら即座に教育委員会が飛んできそうな案件ですが、当時はそれが「根性」を鍛える修行だったのであります。
そして、瓶牛乳が生んだ最大の悲劇といえば「笑わせ屋」の存在でしょう。
牛乳を口に含んだ絶好のタイミングで、隣の席のアイツが渾身のギャグを放つ。
耐えきれず、鼻から、あるいは口から、勢いよく噴射される白い霧。
「汚ねええええ!」
という叫び声と共に、教室に広がる阿鼻叫喚の図。
あれはもはや様式美でしたね。今ならスマホで撮影されてSNSで拡散、即大炎上間違いなしですが、当時は掃除の時間に「牛乳拭きの雑巾」で拭き取っておしまい。
……ところが、この「牛乳雑巾」がまた曲者。
洗っても洗っても取れない、あの独特の酸っぱい臭い。洗ったはずなのに、それでも漂うあの臭いは、まさに昭和のトラウマの残り香でありました。
そんな厳しい牛乳ライフにおいて、唯一の「救世主」と呼べる存在がありました。
そう、全児童が神と崇めた「ミルメーク」の登場です。
ミルメークが出る日は、朝から教室の空気が違いました。「今日は当たりや!」と、クラス中が祝祭ムード。
瓶の牛乳を少しだけ飲み、できたスペースに魔法の粉を投入。瓶を直接振って混ぜ合わせれば、そこには魅惑のコーヒー牛乳が完成します。
ちなみにこのミルメーク、実は1967年に名古屋で誕生したのですが、開発のきっかけは「脱脂粉乳から瓶牛乳に切り替わった際、子供たちが栄養不足にならないよう、美味しく飲ませるため」だったとか。まさに愛の結晶だったわけです。
しかし、無情にも時代は流れます。
私たちの学校にも、効率化の波が押し寄せました。
「紙パック」の導入です。
重たい瓶を運ぶ必要もなくなり、割れる心配もない。ストロー付きで衛生的。
しかし、紙パックの普及と共に、私の学校からはミルメークが姿を消しました。
「憎い、牛乳パックが憎い! 」
三角形のテトラパックを恨めしく眺め、ストローを刺しながら「瓶の方が旨かった」と毒づいたものです。
……まあ、その一方で、同じ紙パックでも森永の「ピクニック」は大好きだったのですが。あの絶妙な甘さは、給食の牛乳にはない「都会の味」がしたのです。
あの白いビン、忘れられない日々
今、冷蔵庫から冷えた牛乳を取り出すたびに、あの頃の喧騒を思い出します。
ガシャンガシャンと響く牛乳函の音、アルミ食器がぶつかる金属音、そして窓から差し込む午後の光。
瓶牛乳は、単なる飲み物ではありませんでした。
それは、私たちが共に笑い、共に泣き、共に鼻から噴射した、青春の「純白の証」だったのです。
瓶を返却し終えた後の、あの少しだけ誇らしい気持ち。
今の子供たちには味わえない、不便だけれど豊かだった昭和の1ページ。
皆さんの思い出の中にも、あの「白いあんちくしょう」は今も元気に鎮座していますか?
カッパ隊長でした。それではまた。


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